河岸沿いの桜

※「飛燕堂」シリーズ/燕=山本 →「野暮とはこれ如何に」(獄山)


 たまには昼間から付き合え、と客の一人から誘われて、燕はお天道様が高いうちから公園にと繰り出した。浅草の堤もいいがぶらり上野まで行こうぜとカランカランとゲタの音も高らかに連れ立って歩き始めて約半時。上野公園は枝から零れんばかりの桜で溢れていた。
 手頃な枝振りの樹をみつけて花見の場所を決める。
 燕に何かをされるということを期待していない客の中で彼だけは燕に世話をさせていた。
 燕がゴザを敷けばその上にごろんと寝転がる。酒の用意をすれば杯にはらりはらりとぴんくの花びらが落ちてくる。さぁっと風が吹けばくるりくるりと桃色の渦がそこかしこでできあがる。何一つおとなしくいきはしない。
 寝転がる細身の男の横で、燕は桜の樹にもたれかかり杯を重ねる。
 酒好きのふたりに肴はいらない。
 否。今は、太陽の光をやわらかく通す桜の木々が肴だった。
「そういや、茶菓子をいくつかもらってた」
 燕は懐から桜の花を模した和菓子を出した。男の前に並べて選ばせる。丸い桃色に緑の葉型の生菓子は紫紺の風呂敷によく映えた。
「濃茶でも欲しいな」
「公園口に茶屋があった」
 腰を上げる燕を指先で止めて
「まぁいいさ」
その指が菓子を摘まみあげて己の口に放り込んだ。次いで透明な酒を口にする。空いた杯には燕が絶え間なく注いでいくがこれがまた見事な呑みっぷりだった。
「食え」
 胡座をかく燕は摘まれた和菓子を口で迎えにいく。
「行儀が悪い」
 投げられる戯れ言をもぐもぐと噛みしめながら受け流す。
噛んだ後に塩の味が薄く広がることで餡の甘味が増す上品な菓子だった。ふい、と気の早い燕が二人に影を落として飛んでいく。それを見送り一面の桜の枝が伸びる青空から何の気なしに地上へ視線を戻すと、銀色の光をみつけた。
 離れた場所を獄寺が歩いていた。同じ制服を着た男子生徒達と分厚い本を持ちながらじゃれ合うように公園を横切っていく。
 やたら眩しくてやや自失しながら酒を口に運ぶ。
 冗談を言い合っているのか、背後の旧友達を振り返りながら獄寺は歩く。その度に銀の髪は跳ねて陽光を反射する。穏やかな光景の中でそこだけが鮮明に見えてくる。
「知り合いか?」
「ちょっと、な」
 膝に頭を乗せてくる男は目を閉じながら聞いてくる。
 それきり黙るようだったので、獄寺から目を離せない。春に似合いの屈託のない笑顔。どちらかと言えば険の目立つ顔立ちで身体だって成長期の少年らしく肩や肘が骨張っている。なのに昼の光の中歩く獄寺は、やわらかく甘やかな雰囲気をふんわりとまとっていた。彼自体が発光しているように見えるのは、きっと自分が夜の世界の住人だからだと燕は納得する。太い樹の幹に寄りかかり、知己の客を膝に抱き酒を呑む自分と、あの獄寺の間には見えない川が流れている。深さも幅もわからないけれどくっきりと引かれた線がある。だから、こうやって穏やかに眺めることができるんだと。そしてそれぞれがそこにいるからこそ穏やかにいられるんだと知る。桜だって遠くからみれば子供の落書きのような桜色の連なりだが、こうやって真下から見上げると枝振りが目立つことがわかる。遠くから見ているからこそ、手を伸ばさないからこそ綺麗なままで置くことができるものだと。
 ――獄寺。
「燕。おまえは何もあきらめなくていいんだぞ?」
「なんだ突然」
「迷子になったような顔をしているからさ」
「小僧に言われたくないなぁ」
 心の底を見透かされたようでどきりとしながらも、上手にそれを隠して燕は嗤った。膝の上の男の目を閉じるように掌をかかげると、すんと鼻を鳴らして彼はすぐに昼寝に入ったようだ。昼間とてまだ肌寒い。傍らに畳んでいた男のインバネスを片手で広げてかける。漆黒の布に隠されたのは燕の身体に徴をつけていく墨師であり、燕の裸の心を知っている男だった。
 今一度目を上げると、獄寺達は公園の入り口に向かう階段を降り始めたところだった。
 ――獄寺が振り返ったら…。
 彼の姿は階段の下へと消えた。
 ――どんな表情をしたんだろうな。
 せんないことを考えた自分を自嘲して燕はいまいちど頭上へと目線を移した。
 自分を包むように柔らかな白と薄紅の空が広がっていた。
 どれだけ見ても桜の花々というものは見飽きることがない。
 寝入る小さな頭を撫でながら、燕は桜を見続けた。けれど向こう岸をゆっくりと歩く獄寺の幻をも同時に見ていた。
 

 了